【ディズニー100周年 Story】1923年~1943年
みなさま、こんにちは!
本日はDisney100周年を記念して、1923年~1943年までの歴史をご紹介いたします。
どうぞ最後までお付き合いくださいませ。
ウォルト・ディズニー・カンパニー
ウォルト・ディズニー・カンパニーは、1923年~1943年までの間に、
・ディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオ(1923年~1929年)
・ウォルト・ディズニー・スタジオ(1929年~1940年)
・ウォルト・ディズニー・プロダクション(1940年~1986年)
と名称が変わります。
ディズニー社の歴史についてはD100 Story第一弾「ディズニー社の歴史」でご紹介しておりますのでこちらも合わせてご覧ください☆
ディズニー社の歴史 | エドムタイムズ (edom.co.jp)
1927年:オズワルド・ザ・ラッキー・ラビットの誕生
『アリスコメディー』シリーズ終了後、ディズニーは自身初のキャラクターである「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を誕生させます。
1927年~1928年にかけて、オズワルドは短編シリーズ計26作品に登場します。
しかし、配給元のユニバーサル・ピクチャーズとオズワルドの権利を争うことになり、ウォルトが生んだオズワルドは奪われてしまいます。
(※2006年にはオズワルドの版権がウォルト・ディズニー・カンパニーに返還されます!)
それだけでなく、ユニバーサル・ピクチャーズによって、ディズニーカンパニーの主要アニメーターを引き抜かれてしまいます。
1928年:ミッキーマウスの誕生
倒産ギリギリまで追い込まれたウォルト・ディズニーは、「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」に変わる「モーティマー」というネズミのキャラクターを誕生させます。
ウォルトの妻、リリアンが「モーティマーマウス」という名前の響きを気に入らなかったことから、このネズミは「ミッキーマウス」と改名されます。
のちに、ミッキーマウスはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、ディズニーカンパニーの再建に大きな力を発揮します。
1928年:『蒸気船ウィリー』でミッキー&ミニーがスクリーンデビュー
ミッキーとミニーのスクリーンデビューは1928年11月18日にアメリカで公開された7分間の短編モノクロ映画です。
公開当時は音声付きアニメーションが珍しく、人々はあの有名なミッキーの口笛のリズムとともに心躍らせました。
また、世界初の映画と音楽を融合したサウンドトラック技術は、ウォルトのクリエーターとしての技術を世界に衝撃を与えました。
■1929年
『プレーン・クレイジー』と『ギャロッピング・ガウチョ』も音声付きで作り直され、1929年の再公開では大成功を収めます。
同年8月、配給会社のコロンビア映画と契約。
アニメーションと音楽の融合を重点に置いた「シリー・シンフォニー」シリーズがスタートします。
12月16日、ウォルト・ディズニー・スタジオからウォルト・ディズニー・プロダクションとして生まれかわります。
マーチャンダイズ部門としてウォルト・ディズニー・エンタープライズを設立、さらに2つの子会社を持ちます。
1930年:『ミッキーの陽気な囚人』でプルートがデビュー
1930年以降、Fab5のキャラクターが続々と登場します。
1930年9月5日に公開された短編アニメーション、『ミッキーの陽気な囚人』でプルートは初登場し、作中では警察犬として登場しています。
2作目に登場した『ミッキーのピクニック』では「ローヴァー」という名前で、「プルート」という名前で登場したのは、1931年公開の短編アニメーション『ミッキーの猟銃』が始まりです。
1932年:『ミッキー一座』でグーフィーがデビュー
1932年5月25日には、グーフィーがスクリーンデビューを果たします。
初登場は「ディピー・ダウグ」という名前でしたが、1934年に公開された作品『ミッキーの芝居見物』では「グーフィー」という名前が付けられました。
この頃、ウォルトは色付きアニメーションを制作するため、テクニカラー社と契約します。
ミッキーマウスと「シリー・シンフォニー」シリーズが人気を博したことにより、ウォルトは初の長編アニメーションに取り組みます。
1934年:『かしこいメンドリ』でドナルドダックがデビュー
1934年6月9日には『かしこいメンドリ』でドナルドが登場します。
「ドナルドダック」の名前でお馴染みですが、『ドナルドの入隊』という作品で「ドナルド・フォントルロイ・ダック」というミドルネームが明かされています。
短編や主役映画など170本の作品に登場しており、その数はミッキーを上回っています。
この頃、ウォルトは最初の長編アニメーション映画の生産を開始します。
1937年:色褪せない輝き『白雪姫』の公開
1937年12月には、世界初の長編カラーアニメーション、『白雪姫』が公開されます。
当時80分にも及ぶカラーアニメーションは、観客にとっても初めてのため、落ち着いた色調を使用するよう決めていたそうです。
実写をトレースする「ロトスコープ」といった技術を駆使して、キャラクターにリアリティを与えました。
約4年もの歳月をかけて200万枚以上のスケッチが描かれ、最終的には25万枚という膨大な量のセル画が使用されました。
公開後『白雪姫』は長編アニメーションの伝説といわれ、アカデミー賞を受賞しました。
その後、ウォルトは『白雪姫』の興行収入を元手に、カリフォルニア州バーバンクに51エーカー(210,000平方メートル)のスタジオを建設します。
■1939年
新設されたウォルト・ディズニー・スタジオの操業が開始します。
■1940年
4月2日には、ウォルト・ディズニー・プロダクションとして株式を公開しました。
その後、『ピノキオ』・『ファンタジア』を公開します。
1940年:映画史を変えた『ファンタジア』の公開
ディズニーアニメーション長編3作目にして、世界初のステレオ音声作品となる『ファンタジア』が公開されます。
芸術性の高い作品を望んでいたウォルトは、「シリーシンフォニー」を維持しながらストーリー性のある音楽作品をつくることにし、「魔法使いの弟子」を題材として取り上げることにしました。
フィラデルフィア管弦楽団によるクラシック音楽をバックとした、8編の物語集で構成されており、ウォルトは上映する環境にもこだわりました。
高度かつ精密な音響システムをつくり、劇場には90ものスピーカーを設置したのです。
当時は上映できる映画館が限られていたことや、第二次世界大戦が要因で興行収入はいまひとつでしたが、終戦後には高い評価を得ることになります。
1941年:愛くるしいビジュアル『ダンボ』の公開
1941年には『ダンボ』が公開されます。
「動物」をテーマとした長編アニメーションの公開は『ダンボ』が初めてです。
1年半という短い期間、『ピノキオ』の1/3の低予算で制作された『ダンボ』は『白雪姫』以来のヒット作品となります。
キャラクターや背景デザインのシンプルさがアニメーションを引き立たせ、当時、経営危機に陥っていたディズニーカンパニーに大きな収益をもたらしました。
1942年:リアリティの追求『バンビ』の公開
8月には『バンビ』が公開されます。
制作自体は1936年から開始されており、当初は『白雪姫』に次ぐ長編2作目の予定でした。
動物のリアルな動きとアニメーションならではの描写をうまく融合させるために、多くの研究が重ねられました。
アニメーターたちには動物解剖学の講義を受けさせ、スタジオでは2頭の鹿を飼い、作品づくりに徹底的なリサーチを欠かしませんでした。
アニメーション制作だけでも3年以上費やしており、動物を描くための知識は、この後のディズニー作品に大きな影響を与えることになります。
皆さま、いかがでしたか?
Disney100周年を記念した記事は、まだまだ続きます。
次回の更新をお楽しみに!